刻の彼方-江戸篇- -終焉-

取り調べはひと月を超えていた…
その頃には熊兵衛、藤十郎ともに疲労の色が強く出ていた。
藤十郎は熊兵衛の無実を晴らそうと、あらゆる手段・人脈を使っていた。
しかし、それらは全て無駄に終わっていた。

あまりにも全てが上手く行かないまま時が過ぎ…
既に役人から『罪人』とされた熊兵衛は、自分の行く末が決まる日を目前に迎えていた。
牢屋で一人踞っている、やつれ果てた熊兵衛…
「おい!熊兵衛起きろ!」
役人の一人が熊兵衛に話しかけてきた。
「なんでしょうか…おら…もう…色々聞かれるのは…」
精神的にもボロボロな熊兵衛は、まるで屍の様な目をしている…
「違う、お前に会いたい奴が居るだけだ」
熊兵衛が考えていた事とは違う言葉が役人から聞こえた。
「だ…誰なんですか?」
役人は何も言わず、入り口の方へと去って行った。
「こちらです…」
遠くの方から誰かが話している声が聞こえ…次に姿を表した人は…
「熊兵衛…大丈夫か?」
藤十郎は真剣な眼差しで熊兵衛の居る牢屋へやってきた。
「と…藤十郎様!どうして此処に…」
少しだけ顔色に生気が戻り、藤十郎の居る方へ寄って来た。
「儂は、今まで熊兵衛の無罪を証明しようと色々と手は尽くしたのだが…」
藤十郎は、熊兵衛に今まで自分がしてきた事を話し…
「しかし、どうも上手く行かず…申し訳ない!」
自分の不甲斐なさに涙を浮かべつつ、地に頭をつけた。
「あ…頭を上げてください!おらは、藤十郎様がそこまでしてくれるとは思ってもみなかったので、驚きましたよ!」
藤十郎は頭を上げ…
「儂にはまだ『手』は残っているが…その為には熊兵衛の協力が必要なのだ」
「き…協力って…なんでしょうか…」
藤十郎は辺りを見回し、熊兵衛の耳へ口を近づけた…
「判決が下る日…つまり明日、儂も一緒に行く…もし死罪なぞになったら、その瞬間儂は刀を抜く…そして共に何処か遠くへ行こうと思っておるのだが…」
「つまり…脱獄 するのですか!?」
藤十郎の考えている『最終手段』に熊兵衛は目を丸くした。

「藤十郎様…」
熊兵衛は暫く考え…口を開いた。
「おらは、判決を素直に聞き入れます。例え『死罪』にならなくとも『罪人』の名が何処へ行っても付いてしまいます…」
(補足:判決で命があった場合(島流し等)でも、罪人の体には『仁王烙印(仁王像の印)』が押され、全国の役所へ通告される)
「それでは…もし『死罪』になったら…儂はどうすればいいのだ?」
困惑した表情を浮かべ、藤十郎は問う…
「おらなんかより、ずっと良い人を見つけてください…」
自分の本音を抑え、半ば泣きの熊兵衛…
「いいや、儂は熊兵衛しか居らぬ!それは…あの日誓い合っただろう」
藤十郎の声は役人に聞こえていた…
「何を大声を出している!刻は過ぎたぞ!面会は終わりだ!」
藤十郎は役人に引っ張られるかの様に、熊兵衛の居る牢屋から去って行く…
そんな最中…
「もし…『来世』とやらがあるならば…其の時に逢えると良いですね…」
熊兵衛の、その言葉に藤十郎は涙が溢れてきた。
「必ず逢おう!明日まで儂も手を尽くす!熊兵衛は絶対に無罪なんだからな!」


翌朝、辰三つ時(午前九時過ぎ)
熊兵衛は牢屋から出され、奉行所の中にある、白州に敷かれた蓙(ござ)の上に座らされた。
勿論、藤十郎の姿もあり、時折お互い目を会わせる。

「町奉行 戌井督衛門府〜」の声と共に裃を着た一人の犬ノ民がやっってきた…
熊兵衛の前にある座敷に座り、淡々と…
「こたび、其方の起こした殺生…過去の恨みを今になり晴らす事は、減罪の余地は無い。よって熊兵衛を…下手人(斬首刑)に処す」
判決が言い渡されながらも、熊兵衛は動じなかった…
一方の藤十郎は…
「戌井殿!儂は不服です!再度の調(再調査)を申し上げます!」
熊兵衛は奉行に近寄ろうとしたが…周りに居た役人に抑えられた。
藤十郎は抵抗するが、役人達の方が力は上だった…
「此度の件は何度も調べた。それがこの結論だ…不服とならば、貴様を『侮辱の罪』で島流しに処するぞ!」
奉行が藤十郎に向け一喝すると、熊兵衛は藤十郎の元へ歩いて行く…
「藤十郎様…やはり死罪になってしまいましたね…しかし、おらはこれで良かったのしれません…」
「何を言う熊兵衛!気でも触れたのか!?」
「いいえ、おらは正気です。いつか…おらと藤十郎様が一緒に堂々と歩ける時代が来る筈です…今は、とても無理だと分りましたし…これ以上藤十郎様にご迷惑はかけられません…昨晩おらが最後に言った言葉を思い出してください」
熊兵衛が役人に目配せすると、役人は頷き
藤十郎を…奉行所の外へと連れ去って行った…

「御奉行様…一つだけお願いがございます…」
「なんじゃ…言ってみなさい」
「今の御侍様…藤十郎様には何もしないでください…それが出来ないなら…おらは、どんな手段を使ってでも藤十郎様と共に何処かへ…」
熊兵衛は覚悟を決めた様な目を奉行に向けた。
「ふ…ふむ、分った。先の事は目を瞑ろう…」
「有り難うございます…」
奉行に一礼をすると、熊兵衛は役人に連れられ何処かへ去って行った。


そして…最後の日…
熊兵衛は白装束を身に纏い、蓙(ござ)の上に座らされた。
彼の少し先には竹で出来た柵が立てられ、幾多の人が熊兵衛の末路を見守っている。
その群衆の中に藤十郎の姿もある…
藤十郎には考えたくなかった出来事だ…しかし「熊兵衛が望むなら仕方が無い」と無理矢理自分に言い聞かせていた。

そして刑を執行する時を迎えた…
執行人は、熊兵衛の後ろに立ち…ゆっくりと懐に刺していた鞘から刀が抜かれる…
そんな最中、熊兵衛は目隠しをされていたが、藤十郎の居る方に顔を向けた。
熊兵衛の表情は、目隠しはされている為分らなかったが…口元が笑っているように見えた。
それは恐怖からの笑みではない事は、藤十郎は直感で分った……

そして…熊兵衛の首に向け刃が振り下ろされる。
その瞬間、藤十郎と熊兵衛の脳裏に、今まで二人が共に過ごした映像が浮かぶ。
執行される瞬間、幾多の人が目を覆ったが藤十郎は瞬きをせず、確と熊兵衛の最期を見届けた。

刑が執行された…その瞬間
「うぉぉぉぉおおぉぉぉぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!
藤十郎は雄叫び声を上げ、鞘から刀を一気に抜き両手に持ち、熊兵衛の居る方へ走って行った!
彼の優しい目は、いつの間にか鋭く…何かに取り憑かれたかの様な眼に変わっていた。
彼の異様な光景に、群衆は叫び声を上げ避けてゆく…
熊兵衛の居る場所までもう少し と言う時だ!
"キィン"
辺りに甲高い音が鳴り響いた。
「何をする!そこを退(の)け!!」
刃が交差する…その相手は、あの狼三郎だ。
「退きませぬ!藤十郎様!その刃を仕舞ってください!!」
辺りにピィーンと張りつめた空気が漂う。
「否!」
"ギィン!…シュッ"
その刹那、空に鮮血が舞う…

次の瞬間…狼三郎の目から夥(おびただ)しい血が流れ、彼はその場に跪いた…
一目散に熊兵衛の居る場所を目指す藤十郎…
その途中、幾多の人が彼の行く手を阻む…
その度に藤十郎は、まるで別人かの様な眼で人々を斬る…
彼が身に纏っていた服、そして顔が鮮血で染まってゆく。
「鬼…まるで…鬼人じゃ…」
修羅場と化している中、群衆の中に居た一人の老人が呟いていた。

藤十郎は涙を流し…必死に熊兵衛の元へ向かおうとしていた……


それから幾刻か経ち…藤十郎は修羅場から少し離れた崖に立っていた。
「熊兵衛…何も出来なくて済まぬ…儂も直ぐにそっちへ行くから待っていろよ…」
崖に一歩一歩近づく藤十郎…彼の眼には生気は無い…
崖の下は岩場で波しぶきが強い中…藤十郎は空を見上げた…
「御主の言う通り…儂等が堂々と手を繋げる時代が来るといいの…『来世』とやらで逢おう…」


こうして、藤十郎は崖から身を投じ…自らの命を断ち、熊兵衛の居る場所へと旅立った。