刻の彼方-江戸篇- -死せる躯-

お互いの将来を誓い合った日から数ヶ月も経った…
狼三郎に見つからない様、二人は時々こっそり逢っている。
無論『営み』も逢う度にしている。

前回の一件から数ヶ月が経ったある日の事だ。
時間にして卯一つ時(午前六時過ぎ)
自分の家で眠っていた熊兵衛は、ゆっくりと起きだす…
「うぅ〜…ん〜〜」
何気なく床に手を置いた時、その場所に人肌らしき感触があった。
「あれ?藤十郎様…?」
寝ぼけ眼で横を見てみる熊兵衛…その途端
「わあああああああああああああ!!!!!!」
熊兵衛の手は血に染まり…彼の横には血まみれの犬ノ民らしき人が倒れていた。

熊兵衛は急いで家から飛び出し、一目散に町奉行所へ駆け込んだ。
「止まれ!何者だ!」
町奉行所の門に立っていた見張りが、熊兵衛の行く手を阻む。
「お…おらの家に…人が死んでいるんです!!」

熊兵衛は町奉行所の役人を連れ、再び家へ戻ってきた。
ゆっくりと戸を開けると…熊兵衛が家を飛び出す前と変わらず、犬ノ民は倒れていたのだ。
それを見た役人は、一気に家の中に雪崩れ込み、犬ノ民の元へ向かっていった。
「こいつは…既に息絶えておるな…」
役人の一人がそんな言葉を漏らした。
「そ…そんな…莫迦な…なんでおらの家で…」
足の力が抜け、その場にへたり込む熊兵衛…
騒ぎを聞きつけた近所の人達も、次第に熊兵衛の家の前に集まり出した。
「なんの騒ぎ?」
「人が死んだらしいぞ?」
「ウチの近所で…イヤねぇ〜」
「犯人は…まさか」
近所の人達が小声で憶測を立てる中、熊兵衛の前に一人の猪ノ民の役人が立っていた。
「取り敢えず、奉行所まで来て貰おうか…」
そう言うと、その役人は座り込んでいる熊兵衛の腕を掴んだ。
「えっ!?そ…そんな…何故?」
「安心しろ、ただ話を聞くだけだ…」


「うーむ…心の臓をひと突き…か」
熊兵衛の家で屍を見ながら、一人の役人が呟いた。
「ふむ、刀傷では無いな…傷口から見て…包丁か?」
現場検証が行われている中…
「熊兵衛!何の騒ぎだ!」
藤十郎が急いで熊兵衛の家に入って来ようとした。
しかし、家の中に入ろうとしたが、引き戸の所で見張っていた役人に止められてしまった。

「御主は誰だ?」
現場を見ていた役人が藤十郎に近づき問う。
「儂は…先日、熊兵衛を助けた葛西 藤十郎だ!」
「葛西…?御主、まさか…あの名家の…」
役人は、何かを思い出したかの様に藤十郎を指差した。
「我が家は代々、戦で手柄を立てているから、有名なのだろうな…それより、何の騒ぎがあったのだ?」
一旦は冷静を取り戻した藤十郎…
「人殺しだよ…熊兵衛とやらが朝起きたら、横に屍も寝ていたそうな…」
大雑把に事の流れを話した猪ノ民の役人…
「なんだと!熊兵衛は何処だ?」
身の毛を逆立て、役人に問う藤十郎…
「町奉行所だよ…事情を聞く為に連れて行ったよ」



「一体聞くが…あの屍の主には、心当たりはあるか?」
町奉行所では犬ノ民の役人が熊兵衛から色々と事情を聞いている。
「あの人…」
熊兵衛は、今まで閉ざしていた口を開いた…
「あの人は、数年前まで仲が良かった友人で…名前は『八助』と言います」
思いがけない言葉に役人は自分の耳を疑った。
「友人!?…で、『数年前まで』とは、どういう事だ?」
冷静になり再び話を続ける役人。
「数年前、八助と酒場で些細な事で大喧嘩して…そのまま縁を切ったままだったのですが…」
「大喧嘩とは…どの程度なのだ?」
役人は詳しい話を熊兵衛から聞こうとしている。
「殴り合いの喧嘩です。今はその酒場はありませんが…」
役人は紙に筆でメモを取っていく…
「なるほど…恨みはあるのか?」
役人の言葉に熊兵衛は首を横に振った。
「いいえ、もうあの時の事は忘れたいのです…ただ…その時、何本か歯を折られましたが…今は何も思っておりません」
「なるほど…ところで昨日の夜は何をしていた?」
熊兵衛は「う〜ん」と頭を抱え込み…
「昨晩は、家でかなり酒を飲んでおりまして…途中から記憶が無いのです…」
熊兵衛への取り調べは続いた…



一方、熊兵衛の家の近所に聞き込みをする役人。
「昨晩は何か妙な事はありませんでしたか?」
熊ノ民の女性に聞く役人…
「昨日ねぇ〜…何か外で大声が聞こえたけど…私は寝てたから朧げにしか覚えてないよ」
別な場所では狼ノ民の男性に聞き込みをしている…
「昨日な!オラが夜中に小便に起きたら、外で凄い剣幕で話している声が聞こえたよ!」
その事について詳しく聞いていると…
「何かな、『どんなツラさげて来たんだ!とっとと帰れ!』とか『帰らん!話をさせろ!』とか言ってたよ!」
「なるほど、御協力有難うございます!」
役人は一礼をして狼ノ民から去っていった…

ただ近所の人達は、口を揃えて『夜中に大声で喧嘩をしている様子が聞こえた』と言っていた。


一方、藤十郎の方は と言うと…
「本当に昨晩は熊兵衛の声だったのか?」
先程役人に聞かれていた人達に、再び聞き込みをしていた。
勿論、熊兵衛の疑いを晴らすため、一人で行動している。
「よく覚えてないって言ったじゃない!私は寝てたんだよ?覚えてる訳ないじゃないの!」
「誰の声だったか…は覚えてないな〜…オラ、言ってる事は覚えてても、誰の声だったかは覚えてないよ」
藤十郎一人の聞き込みは、思った以上に時間を食った。
「なに!幾らお侍様でも、時間考えてよ!今子供が泣いてるの!見れば分るでしょ!!」


冷える体を擦りながら、藤十郎は聞き込みを続けた。
「熊兵衛は絶対無実だ!儂がそれを証明してみせるから、頑張れ!」
空を見上げると、出会った頃と同じ満月が天に昇っていた。
「藤十郎様…」
奉行所の留置所に座りながら、窓から見える満月の空を熊兵衛も見て藤十郎の名を呟いた。
『事情を聞く』だけと言えど、熊兵衛は留置所に入れられた…
周りには誰も居なく、愛しい人も側には居ない…
時折、寂しさから熊兵衛の目から涙が零れ落ちる。
「おらは八助を殺していないんだ!今は耐えるんだ」
自分に言い聞かせ、熊兵衛は再び踞った…


明くる日も…その次の日も藤十郎は聞き込みを続け、熊兵衛は毎日の様に事情を聞かれている。
そんな、ある日の事だった。
「熊兵衛…君の家から血まみれの包丁が出てきたのだが…」
役人の一人が熊兵衛の前に、血まみれの一本の包丁が置かれた。
「お…おら、そんなの知りませんよ!」
熊兵衛が幾ら否定しても、役人達は熊兵衛を犯人だ と考えていた。
「君には、殺す理由もあるしな…」
役人達から小声でそんな事が聞こえてきた…
「そ…そんな…おら、八助の事、殺してませんよ!」
熊兵衛が大声で否定した…が

「それは、これからもっと調べれば解ってくる事だ…」
役人は熊兵衛を冷たい目で見ながら言っていた。