刻の彼方-江戸篇- -勝負-

二人が出会って数日が過ぎたある日の事…

卯三つ時…(午前七時過ぎ)

「うっしっ!!」

ばん!!

ここは熊兵衛が所属している部屋…

「まだまだ!来いっ!」
親方の大きな掛け声が相撲部屋の中に響き渡っている。

熊兵衛も他の力士とぶつかり稽古や、てっぽう(柱に対しての張り手)、股割り(横開脚)などをやっている…

そんな中…
ふと、ぶつかり稽古をしている熊兵衛は、上がり座敷(親方等が座っている座敷)を見てみる…
数多く居る見学者の中に藤十郎の姿があった。

「どこ見てるんだ!集中しろ」

バシッ!

熊兵衛がよそ見をした途端、幕内の兄弟子からの力強い張り手が彼の顔に当たった…


辰四つ時…(午前十時半過ぎ)

熊兵衛たち力士は稽古を終え、他の人達が水浴びや食事の支度をしている中…

「お疲れ様」
藤十郎は手ぬぐいを持ち、熊兵衛の方へ向かった。
「あ…有り難うございます。まさか本当に見に来て頂けるなんて驚きました…」
藤十郎から手ぬぐいを受け取り、顔を拭いた熊兵衛…
「いや、儂の屋敷も近くてな…ところで、さっきの張り手…大丈夫か?」
「ええ大丈夫です、あれしきの事、日常茶飯事ですから。あ、手ぬぐい有り難うございました」
そう言いながら熊兵衛は藤十郎に手ぬぐいを返した。

「もし宜しかったら、おらと一緒にちゃんこ食べませんか?」
既に上がり座敷には、幕下の力士衆が作った料理が並んでいる。
鍋や茶碗に大盛りの飯…

「おぉ!これは凄い!御馳走になろうかの」

そして二人は座敷に座り、飯を食べ始めた。


「ふぅ〜〜…ごちそうさん!」
腹一杯食べた藤十郎はその場に倒れ込んだ。
「なぁ、熊兵衛…この後は何をしているのだ?」
「おらは特にする事無いので、町を散歩したりしております」
「そうか…もし暇だったら一局せぬか?」
そういうと藤十郎は自分の人差し指と中指を重ね、床に押し付けた。

「将棋…ですかい?」
「あぁ、どうだ?」
熊兵衛は少し考え…

「はい!ただ…おらの家には将棋盤が…」
「なら儂の屋敷に来ぬか?」
「え!?藤十郎様のお屋敷ですか!」
「あぁ、この前下男(奉公人)に暇(休暇)を出されていて、寂しくてな…」


二人で町を歩いていると、熊兵衛は何かを見つけ…
「藤十郎様、此処に寄っても宜しいでしょうか?」
と指を差した。その先には『湘乃湯』と看板に書かれている建物…
「湯屋(銭湯)か…丁度良いな。ひと風呂浴びて行くか」

入り口の暖簾(のれん)をくぐり、番台へ。
「いらっしゃい。十二文です」
「此処はおらが払っておきますね」
熊兵衛はそう言うと、二人分…二十四文を番台へ払った。
「良いのか?」
「はい、この前親方から小遣いを貰ったので」
「そうか、有難うな」

脱衣場で衣類を脱ぎ、藤十郎は刀を服の上に置き、二人とも生まれたままの姿になった。
藤十郎は熊兵衛の身体を見つつ…
「やはり、相撲取りらしい良い体をしておるな」
熊兵衛の腹を軽く叩いた。
「いや、此れでも小さい方ですよ〜」

柘榴口(ざくろぐち=蒸気を逃がさない為の構造)をくぐり湯船に入った二人。
「ふぅ〜〜」
二人の口から同時に溜め息が漏れた。
「やっぱり風呂は良いですね〜藤十郎様」
「そうだなぁ〜気持ちいいな」

「そろそろ出るか」
暫く湯船に浸かった後、二人とも番頭に湯をかけてもらい(この頃の浴槽は汚かった為)
二階にある座敷に腰を降ろし、暫し休憩を取っていた。
熊兵衛は、自分の身体を藤十郎がちらほら見ている事に気づいた…
「おらの体…何か変ですか?」
「ん?い…いや!何でも無い!」
「そうですか…」
何か寂しそうに茶をすする熊兵衛…
「此処には将棋盤は無いのか?」
藤十郎が辺りを見回すと既に先客が居た様で、勝負で賑わっていた。
「やはり帰ってから静かに指すか…」

そして湯屋を出た二人…
湯屋から少し歩いた距離に藤十郎の屋敷はあった。
「結構近かったですね」
「そうだな。しかしあの湯屋には行った事無かったな」
「そうなんですか。おらの家からも結構近いみたいですね」
「儂の屋敷と熊兵衛の家は意外に近かったのだな」
「そうですねぇ〜…それにしても良いお屋敷ですね」
中に入ると、熊兵衛の家より少し広く家具もそこそこあった。
奥の部屋には布団が敷かれた部屋もある…

「少し待っててくれないか?」
そう言うと藤十郎は布団が敷かれている部屋へと消えて行く…
暫くすると、将棋盤を持った藤十郎が戻ってきた。
「さて!お手柔らかに御願いします」

対局…
序盤は熊兵衛が優勢だったが、次第に藤十郎の駒が押してきた…

そして
「そ…そこは待った!」
「いや、待たぬ!ホレッ♪」
「あぁ〜…」
結果は藤十郎の勝ち。熊兵衛の駒は殆ど藤十郎に取られてしまった。
「相撲は強くても将棋は苦手らしいな」
「藤十郎様、強いですよ〜」
負けた熊兵衛は肩を落とし、頭を垂れている。

熊兵衛はフと何気なく外を見ると…
日が落ちかけ、夕焼け空と、鮮やかな夕焼け色に染まったすじ雲が広がっていた。
「あ…そろそろ暗くなりますね…おらはそろそろ…」
「え?帰るのか?泊まっていっても全然良いのだが…」
「いえいえ、それでは藤十郎様に悪いです」
「いや、下男に暇を出されてから、毎日寂しくてな…出来れば……
急に俯いた藤十郎を変に感じた熊兵衛は聞き返す…
「えっと…『出来れば』なんでしょうか?出来る限りの事はしますが…」

暫く間があった後…
「出来れば…儂としては、このままずっと泊まっていって欲しいのだが…」
少し顔を赤くし、藤十郎は小さな声で言った。
「儂は何を言ってるのだろうな!熊兵衛の事も考えずに…済まぬな」
「いえ!藤十郎様がそう仰るなら…ぜひ泊まらさせて頂きます」
「そうか!有難う!!」

こうしてその日は二人で一つの布団を使い、眠りについたのだった…
この夜が長くなる事は熊兵衛には分ったいなかった。