刻の彼方-江戸篇- -序章-

時は江戸時代…慶応元年(西暦1865年)
秋頃から始まるお話…

申一つ時…(午後四時過ぎ)

一人、城下町の空を見上げる熊ノ民の青年…
鮮やか夕焼け色に染まっている空を彼は眺めている。
「綺麗な空だなぁ…今日は満月だといいな…」
独り言を言いながら、何かの包みを片手に熊ノ民の青年は町中に消えていった。

時を同じくして…
此処は武士や侍が多く住む『侍屋敷』の一角…
一件の家屋から出てきたのは、帯刀した一人の狼ノ民。
「今夜は冷えそうだな…」
少し己の身体をさすりながら、狼ノ民の侍は町へと向かっていった。


そして夜…時間にして丑一つ時(午前二時過ぎ)
昼間活気に溢れていた町も静まり返り、町を歩く人は殆どいない…
そんな中…浴衣を身に纏い、手には提灯を持ち町を歩く人…
先程出てきた熊ノ民の青年だ。
「少し寒ぃな…この前まで暑かったのに…」
ぶるっと身震いをしつつ我が家への家路を急いでいた。

川沿いに並んでいる枝垂柳の木の横に人が立っている…
その人陰は熊ノ民の青年の方へ歩を進めていった。

「おい…身ぐるみ脱いで置いて行け」
そう言いながら腰にある刀をキラリと光らせる…
「ひぃ!どうかご勘弁を!」
驚いた拍子に手に持っていた提灯を落としてしまった。
提灯の中に入っていた蝋燭の炎が本体を燃やしまう…

一瞬明るくなった周囲…追い剥ぎの顔が浮かび上がった。

「…ならば、試し切りついでに、この刀の露と消えるか?」
追い剥ぎは薄らと笑みを浮かべ、鞘に納めていた刀を抜き取った。
月光に照らされた刀身が妖しく光る。

「おい!待て!」
の背後から誰かが走ってくる音が聞こえた。
そして次の瞬間、月夜の中で刀が当たる音が数回聞こえ…
誰かが遠くへ走って行く音が聞こえた。

「おい…」

「ひぃぃぃーーーーー…わ…分かりました…い…命だけは…」
一人踞(うずくま)り怯える熊ノ民…その震える身体にそっと手が触れる。
「追い剥ぎは居なくなった…大丈夫か?」
「え!?」
熊ノ民が見上げると、そこには狼ノ民の侍が立っていた。

誰かが遠くへ走って行く音…それは追い剥ぎが逃げる足音だった…

「立てるか?」
「は…はい…危ない所を助けて頂きありがとうございます」
深々と頭を下げた熊ノ民…

「いや、儂はただ近くを通っただけなんでな…それでは失礼する」
すっと振り返ると狼ノ民は歩を進めようとした…
「あ…あの!」
熊ノ民が呼び止めると侍は歩を止めた…

「なんだ?」
「あの…よろしければ、お礼をしたいので家にいらっしゃいませんか?すぐ近くですので」

二人の間に少し間が空いた…

「礼とは大袈裟だが、まぁ帰っても暇だから…上がらせてもらおうかな…」


少し歩いた所で熊ノ民は足を止めた。
「着きました。此処です」

ガラガラガラガラ

戸を開けると、そこには殆ど家具は無い部屋だった。
「ささっどうぞ」
二人は中に入り、戸を閉めた。

「おらには此れくらいしか出来ませんが…」
そう言いながら狼ノ民の前に出したのは、山積みの団子だった。
窓の縁側には、どこからか摘んできたのかススキの穂が風に揺れている…
「そう言えば…今日は十五夜だったな…」
「そうです、昼間買ってきた物ですが…お侍様のお口に合うか…」

侍は団子一個を手に取り口へ運ぶ…

「ふむ…旨いな…」
侍がそう言うと、熊ノ民はホッと胸を撫で下ろした。
狼ノ民は、お茶を一口飲むと…
「ところで…名前…聞いてなかったな…名を何と申す」
「おらは…熊兵衛(くまへえ)と申します。お侍様は…?」
「儂の名は葛西 藤十郎(かさい とうじゅうろう)だ…まぁ『藤十郎』と呼んでくれ」


そして出ている団子を全て食べ終えた後…

「熊兵衛は、何をしているのだ?見た所良い身体しておるが…」
熊兵衛が普通の熊ノ民より、身体が大きい事に藤十郎は気づいた。
「相撲をやっとります」
少し恥ずかしそうに熊兵衛が答える。
「おぉ!相撲をやっているのか!位はどこだ?」
「えっと…今の所、十両です」
「そうか!頑張れよ!」

いつしか二人は相撲話しで盛り上がっていた。


数刻か過ぎた頃…

「おぉ、もうこんな時間ではないか」
何気なく藤十郎が外を見ると空が少し白んでいた…
「すっかり長居してしまって済まぬな、儂はそろそろ御暇(おいとま)しようとするか…」
藤十郎はすっと立ち上がり横に置いておいた刀を取ろうとした。
「そうですか…また御縁がありましたら宜しくお願いします」
「そうだな!今度会う事があったら…そうだな、飯でも食いに行こうか」
すると熊兵衛は満面の笑みを藤十郎に向けた。

ガラガラガラ

「相撲、頑張れよ!ところで今度、稽古…見に行ってもいいか?」
「ええ!すぐ近くですので、是非どうぞ!」

そして藤十郎は自分の住む侍屋敷の方へと帰って行った…