始まりは、どこの町にもあるような、飲み屋が並ぶ町の一画。

「こんな所に貧乏人がいると酒が不味くなるなあー!」
 部屋の隅で飲んでいたボロボロな服を着ている熊族の男に聞こえるくらい、わざとらしい大声で叫ぶ犬族の男達。
 その男は犬族の男の言葉を無視し、ただ目の前の酒を少しずつ口に運ぶ。
 何も反応しなかった事に苛立ちを覚えた犬族の男。
「お前、聞こえないのか!?」
 犬族の男が熊族の男に近づき、彼の目前にあった猪口を払いのけ、襟元をつかみあげる。
「オラが自分で稼いだ金で何飲んでたっていいじゃないですか……」
「るせえ! 貧乏人は泥水でも飲んでろ! 汚い格好でこんな所に居られると手前えの匂いで反吐がでる!」
 そう強く言うと、掴んでた彼の体を地面に突き放す。
 倒れた瞬間、後ろにあった飯台にぶつかり、先に倒れ込んだ熊族の男に向かって崩れ落ちる。
「わああああ!」
 叫び声を上げると同時に、飯台にあった皿が全て床に落ち、皿が割れる。
「立て! 貧乏人だからと言ってこれが分からない訳じゃないだろ!?」
 騒ぎを聞きつけ、飲み屋の周りに野次馬が集まり出す。
 既に周りが見えない犬族の男は腰帯から、刃渡り一尺くらいの脇差を取り出し構えた。

「おいおいおいおい、穏やかじゃねーな」
 野次馬の中から一人の男が店の中に入ってくる。
「なあ大将、熱燗で一本つけてくれ」
 廚(くりや=厨房)の奥に隠れている店主に声をかける。
 赤褐色の体毛に黒い縞模様に藍色の着流しを着た虎族の男。
「ああん? 今からこの汚い害虫を掃除するから店じまいだ。帰りな」
 犬族の男の周りを囲んでいた三人の男共が虎族の男の道を塞ぐ。
「悪いが、店主じゃないお前らの言うことを聞くような莫迦者じゃないんでね、それに……」
 男共の隙間から見える汚い服を纏った熊族の男に目をやる。
「それに、自分より弱い立場の奴だからと難癖つける、お前みたいな小物のやり方も好きじゃないんでね」
 犬族の男と男共の顔つきが鬼の様な形相に変わる。
「その男に文句があるなら、お前らが店を出ろ。此処は喧嘩の場じゃねえぞ」
 唸り声にも似た低い声で男共を睨みつける。
「喧しい!」
 一人の男が怒鳴り声をあげると同時に、他の奴らも脇差の鞘を抜き、一斉に虎族の男に斬りかかろうとした。

 その刹那、甲高い音と大きい物が三つ倒れる音が店内に響き渡る。
 踞っていた熊族の男が、虎族の男の方を恐る恐る見る。
「ほぉ……」
 地面に倒れ込む三人の男共と、刃渡り二尺三寸くらいの刀を持っている虎族の男。
 そしてその様子を黙って見ていた犬族の男。
「峰打ちだ。傷はついてない」
 虎族の男は刀を仕舞うと、ゆっくりと犬族の男に近づく。
「まだやるか? よそ者でもこの鍔の形くらい分かるだろ?」
 鞘に納まった刀を犬族の男に見せると、急に彼の顔が青ざめた。
 犬族はの男はゆっくりと男共を起こし、耳打ちをすると男共の顔色も青ざめる。
 そして四人は、覚束ない足取りで逃げて行った。

「大丈夫か?」
 呆気に取られている熊族の男に手を差し出す虎族の男。
「あ、はい……ありがとうございます」
 熊族の男は虎族の男の手を掴み、足下をふらつかせながら立ち上がる。
「うおっと!」
 一瞬、熊族の男の足下がふらつきバランスを崩した瞬間、咄嗟に虎族の男の体にしがみついた。
 それは端から見ると、肉付きの良い男同士が抱き合っている様にも見える。
「あ、あの、も、申し訳ありません!」
 急いで離れ、近くの壁にもたれ掛かる。
「今のままではまともに帰れないだろ? もし御主が良ければ家まで肩貸すぞ?」
 脚が震え、立つこともやっとな熊族の男。
「申し訳ありません……宜しくお願い致します」
「そういやあ、名前聞いてなかったが、聞いてもいいかい?」
 熊族の男は虎族の背中にもたれかかる。
「オ、オラは庄六(まさろく)と言う者です。はい」
 虎族の男は「そうか」と小さく呟き、店を後にしようとする。
「おお、そうだ」
 虎族の男は立ち止まり、和服の袖口に手を入れ、何かを取り出した。
「大将、ここに御代置いとく。釣りは要らん」
 飯台の上に二両置き、改めて店を後にした。

 葉桜並木が並ぶ河川敷。だんだん周りの景色が殺風景になってゆく。
「本当に御主の家はこっちの道で合ってるのか?」
 提灯を片手に庄六の肩を持っている虎族の男。
「はい、オラの家は少し離れた所にあるので……。あと少しで着きますよ」
 暫く道を進むと、一軒のボロボロな長屋が二人の視界に入ってきた。
「ここか?」
「はい。ありがとうございます」
 庄六を三畳の居間に腰を降ろさせ、虎族の男は長屋を後にしようとした。
「待ってください!」
 庄六の言葉に虎族の男の足が止まった。
「もし、こんな所で宜しければ、泊まっていかれませんか? オラ、これくらいしか出来ないけれど……」
「御主の気持ちは嬉しい。しかし……」
 虎族の男は顔を弛緩させ、一呼吸おく。
「儂はな、御主の様な少し恰幅の良い男が好きなのだ。こんな儂と同じ部屋に居とうなかろう?」
 庄六はよろめきながら立ち上がり、虎族の男の方へ歩き、彼に抱きつく。
「オラも貴男みたいな方が好きでございます。」
 着流しの和服から出たふさふさの胸毛に顔を埋める。
 虎族の男は少し驚きながら、抱きついてきた庄六の体をぎこちなく抱きしめる。
「オラ……名前も知りませぬが、貴男に一目惚れしてしまいました。とても好いております」
「儂も、御主の事は好きだ。だがな……」
 虎族の男は庄六の体を離す。
「儂の立場上、今日会った御主にお世話になる訳にはいかぬ」
 虎族の男がそういうと、庄六の目に薄らと涙が滲む。
「泣くな泣くな。本当は御主の言葉に甘えたいのだ」
 虎族の男は「それに」と付け足す。
「儂の顔はあまり他のものに見られたらまずい。だから誰も起きておらぬうちに帰りたいのだ」
 虎族の男は庄六の頭にポンと手を乗せ、なでる。
「また御主……いや、庄六に逢える事を心待ちにしておる」
 そういうと虎族の男は庄六の唇に己の唇を重ねる。
 虎族の男の舌が庄六の舌に絡みつき、微かにいやらしい音が聞こえる。
「んっ…んんーっ」
 和服越しに見える庄六の大きな一物。そしてお互いの唇が離れ、1本の透明な糸を引く。
「これは儂の気持ちだ。庄六の気持ちは儂と同じなのか?」
 ぎゅっと抱き寄せられた庄六は頬を染めながら頷く。


 長屋を後にしようとする虎族の男。
「あ、あの! 最後にお名前をお聞かせください!」
「儂の名か? 樋浦 朋之(ひうら ともゆき)だ」
 振り返った虎族の男は少し微笑んでいた。
「え……あ、あのお方だったのですか!?」
 庄六は土間にぺたりと座り込み、彼の名前に呆気にとられていた。

「ああ、この佐忠藩の老中だ。だが、身分で態度などが変わるのはやめてくれ。それでも庄六が好いていられるなら何でもする」
 朋之はそう言い残すと長屋を後にした。