——ボクは、人の温もりを知らない。

 物心ついた時には両親は居なく、施設で生活をしていた。
 そこの職員からはボクが二歳の時に交通事故で死んだと聞かされている。
 正直、身寄りがない施設出身者に対する風当たりは強い。
 就職活動では、ただ『施設出身者』と言うだけで落とされる事もあった。
 今はやっと見つけた仕事をしながら、ボロアパートで暮らしている。

 午後六時の終業の音と共に、周りの人達は背伸びをする。
「今日は子供の誕生日だから、早めに帰るわ!」
 真向かいの人が、鼻歌混じりで帰り支度をしていた。
 ボク自身がお祝いをされた事が無いから、正直うらやましい。
「新人くん、後はよろしくね」
 ボクの机の上に山の様に重ねられた書類……これら全てをパソコンに入力して帰るのが日課になっている。
 『誰かに手伝って欲しい』そんな淡い期待を抱きながら、誰も居ないオフィスで画面を凝視していた。

 全ての作業が終わったのは午後十時を過ぎていた。
 んー と背伸びをしていると、突然ボクの目の前が眩しくなった。
「あ、まだいたのか」
 懐中電灯を持ったビルの警備員が、こっちを見ている。
「新人さんだからって、無理しちゃイカンよ」
 初老の豹族の警備員さんが声をかける。
「あ、ありがとうございます。もう終わりましたんで帰りますね」
「そっか。早く待ってる人の所に帰りなさい」
 年寄りじみた説教を始める前に僕は会社を出た。

 近所の駅に到着し電車のドアが開くと、酔っぱらいの大群が車内に入ってくる。
 もともと居酒屋が多い場所だから、当然と言えば当然なんだろう。
 駅ビルから一歩外に出ると、どこからともなくギターの穏やかで心地よい音色が聞こえてきた。
 音のする方を見ると、一人の虎族の人がアコースティックギターを演奏していた。
 彼は歌わずにただ黙々と弦を震わせている。
 行き交う人々は彼の存在が見えていないかの様に家路を急いでいた。
 ボクは近くのベンチに座り、彼の演奏を聞いた。
 聞けば聞く程、何かに引き込まれそうになる不思議な感覚になる。

 ギターの音が止むと、彼がボクの方にやってきた。
「聴いてくれてありがとう。今までやってて君みたいな表情をした人、初めて見たよ」
「あ、あの、迷惑だったらごめんなさい!」
 ボクが謝ると、虎族の彼は首を横にふった。
「いやいや、そう言うのじゃなくて、色んな場所でギターやってるけど、目の前を通る人達は『珍しい人』みたいな顔ばっかりされてて、初めて来たこの駅で、君みたいにイイ表情でずっと聴いてくれた人を初めて見れて嬉しいんだよ」
 後ろで揺れる縞模様の尻尾を興奮気味に揺らしながら、彼はボクの隣に座る。
「何かリクエストは? 初めてのお客さん?」
「え、えっと……貴方が一番おすすめな曲をお願いします」
 すると彼は、一瞬考える様な素振りを見せるとギターを構えた。
「それでは聞いてください。こちらの熊族の方のリクエストで、LIFE」
 先程聴いた曲よりスローテンポで、より心地良い音の渦に引き込まれてゆく。

 あの頃には戻れない あなたは去ってしまった
 ヒトリ この世界に取り残されたわたし
 寒い風がつらく 幼い肌を刺してくる
 一緒に過ごした あの頃が懐かしい
 明るく輝く星たちが わたしを見下ろしている

 
彼の口から出る歌詞は、何故か胸の奥を締め付ける。
「ごめん」
 彼は演奏をやめた。
「え? 何かしちゃいましたか?」
 彼は首を横に振り、ポケットから一枚の布を出した。
「まさか泣くとは思わなかったからビックリしたよ」
 自分でも言われるまで気がつかなかったが、目元を触ると指先が濡れる感覚。
「本当だ……ごめんなさい」
 ボクが謝ると、彼は「ううん」と言ってくれた。

「そろそろ日付変わっちゃうけど、大丈夫なの?」
 自分の腕時計を見ると、彼の言う通り二つの針は重なりかけている。
「ボクは明日休みだから大丈夫ですけど、貴方は?」
 彼は一瞬顔を曇らせた様に見えた。
「俺はその日暮らしだから、特に時間とか気にしない」
 視線をギターを弾いていたその場所に向けると、ダンボールが幾つも置いてあった。
「俺、ガキの頃から身寄りが無くてさ、施設出た後なんとか住み込みのガテン関係の仕事を見つけたんだけど、この前その会社が潰れちゃって……それからずっとこの通りの生活」
「変な事聞いちゃってごめん……ボクも子供の頃、親が死んじゃって親戚いなかったから施設で育ったんだ」
二人の間に少しだけ重い空気が流れた。
「もし君がよかったら、ボクの家で話さない? ボロアパートでもよかったらだけど」
 自分でも驚くような発言に、彼はボク以上に驚いていた。
「えっ!? こんな素性の知らないヤツ上がらせて大丈夫なの?」
 ボク自身も不思議なくらい、さっき初めて会ったばっかりで名前すら知らない彼を信用できた。
「うん、なんか大丈夫な気がする。もしよかったら住んでも良いし」

 彼は置いてあったリュックを背負い、手にギターケース。
「重くない? もしよければ持とうか?」
「ありがとう。でも大した物入ってないし軽いから気にしないでいいよ」
 ボクのアパートに向かう道中は、お互いに何も話さなかった。
 正直、何を話していいのか分からなかったから。
 駅から少し歩いた静かな場所にアパートは立っている。
「結構駅から近いんだなあ」
 ドアのカギを開け、とりあえず玄関先の明かりをつける。
「おじゃましまーす」
 小さい声を出しながら、彼は部屋に入る。なぜかきょろきょろと色んな場所を見ている。
「何か気になるのあった?」
「いや、自分以外の部屋見るの初めてだから……気に障ってたらごめんな」
「ううん、大丈夫だよ」

 荷物を部屋の隅に置くと、彼はゆっくりと手を差し出す。
「自己紹介まだだったね。俺は夏刈 卓也(かがり たくや)と言います。卓也いいから」
「えっと、ボクは春山 蛍(はるやま ほたる)です。ボクも蛍だけで」
 普通の人から見たら、ただの握手なのだが、それだけでも顔から火が出そうなくらいの恥ずかしさを覚えた。
「ごめん、なんか……したいのはやまやまなんだけど……握手した事ないから、恥ずかしいと言うか」
自分でも分かるくらい変な言い訳でその場をやり過ごそうとしている。
「じゃぁ、ちょっと強引だけど、これで大丈夫?」
 その言葉と同時に卓也は、もう片方の手でボクの右手を掴むと、その手を握った。
 なんて事は無いただの握手が、ボクにとっては少し恥ずかしかったが凄く嬉しかった。

 ——人の手ってこんなに温かかったんだ……。

「お、おい! 泣く事ないだろ!?」
 予想外な反応に慌てる卓也の横で、自分でも分からないくらい涙が溢れてくる。
「ごめん、なんか分からないけど、凄い嬉しくて」
 溢れる涙を近くに干してあったタオルで拭いて落ち着く。
「ずっとね、施設でも学校でも会社でも、他の人と握手とか手繋いだりした事ないんだ」
「そうだったんだ……言ってくれてありがとうな」
 その時の卓也は、会った時よりも穏やかな表情で僕をじっと見ていた。
「ぼ、僕の顔に何かついてる?」
 すると卓也は目を閉じ、首を横に振る。
「なんて言うか……『感謝』の一言で言い表せないくらい、ありがとう」
 そう言った瞬間、卓也は僕の体に抱きついてきた。
「えっ!? な、なに?」
 僕自身がパニックになっている間にも、布越しに彼の体温が伝わり、彼の汗の匂いが鼻腔をくすぐる。
「今の俺が出来る感謝の気持ち。気持ち悪いかもしれないけど、勘弁してくれ」
 僕は首を振り、自然と彼の背中に腕を回す。
「温かい……」
 何度目かの涙を僕は流していた。


 ——僕は、初めて人の温もりをやっと知る事ができた。


end.